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法話図書館 【佐藤俊明のちょっといい話】ブログ

平成8年から法話図書館で連載された佐藤俊明(さとう・しゅんみょう)先生のちょっといい話 ブログ版です。携帯電話からも見られます。
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第90話 健康の秘訣
 ウイスキーの「オールドパア」はトーマス パアーの長寿にあやかってつけられた名前である。
 トーマス パアーは102歳で婦女暴行で捕らえられ、18年間の刑に服し、120歳で出獄して結婚、一人の子供をもうけるという精力絶倫の人だった。
 152歳のとき、イギリス皇帝に招かれ、ご馳走を食べ過ぎたばかりに、まだまだ生きられる寿命を縮めてしまったという。
腹八分目は健康の秘訣である。

 東洋でも「腹八分目、医者いらず」といい、また「頭寒足熱」ともいう。
 頭が冷えるとすっきりして物事を冷静に正しく判断することが出来る。
 逆に頭が熱くなると前後不覚になり取り返しのつかぬ失態を演ずることになりかねない。

 座禅をすると、今、正に眠りにはいろうとするときのように、波長の長いゆるやかな脳波アルファ波が出てくる。アルファ波は普通の場合、眼を開けてるときには出てこないのだが、座禅に習熟すると眼をあけたままでも出てきてなにか刺激があればすぐに反応するが、また2、3秒してもとのアルファ波に還るという。
 これはつまりとらわれのない状態を示すもので、それが座禅によって得られる証拠である。

 今日は刺激が強く、また多い時代で、喧嘩、口論、殺人が断えない。
 それは、逆上して前後不覚になるからである。
 そういう時代であればあるほど、私たちの頭を冷やし安らかな状態におく座禅は健康保持の面からも素晴らしい。

 腹八分目、頭寒足熱は健康のもと。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 11:57 | comments(0) | - |
第89話 子供は見ている
『鳩翁道話』にこんな話があります。

 昔、ある家に目の見えない姑さんがおりました。嫁さんはひどく邪険に扱って、姑がごはんをこぼすからといってうす汚い木の空箱になんでも放り込んで食べさせておりました。
ところが或る日、子供たちが木屑を集めて針を打っておりましたので、嫁さんが、

「坊やたち、何してるの?」

と聞きました。
すると長男が得意気に、

「おかあさんがおばあちゃんになってから食べさせる箱を作ってるの」

と答えたそうです。

 それを聞いて嫁さんびっくりし、それからというものはすっかり心を改めて姑さんを大事にしたということです。

 子供の頃は、眼が覚えている限り一瞬の休みもなくいろんな情報を集め、見るもの聞くもの感ずるものすべてを吸収して成長してゆきます。
 だから家庭の中に宗教的雰囲気がただよっていれば、子供は知らず識らずのうちに心豊かに成長してゆくのです。
「宗教なき教育は賢い鬼をつくる」という諺があります。賢い鬼は家庭や社会を破壊することはできても建設することはできません。
 賢い鬼をつくらないよう宗教情操の豊かな家庭を築くことが大切であります。

 このごろ寺を訪ねてくる人の中に、子供が建ててくれるとは思えないからお墓を造っておきたいという人がありますが、老後になってそうした心配をしなくてよいよう、若い頃から真に安らぎのある家庭づくりに心がけるべきであります。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 11:54 | comments(0) | - |
第88話 6/7の功徳
 「人は亡き父母祖先の為に霊膳をあげ、茶湯を献ずるが、少しも減っていない。それでも供養は届くのか?」
という後醍醐天皇からの御下問に対し、瑩山禅師はこう答えている。

 梅の花は垣根を隔てても匂ってきますが、花にはなんに変化もありません。
 また私どもの花にもなんら跡型も残りません。
 心が通うということはまさにこのようなものです。
 供養は目に見える変化のあらわれを期待するものではなく、それは雨露が自然に草木をうるおし育てるように無心に行われるべきものであります。
 霊はまごころであります。
 いま一つ例を申し上げますと、私どもは手紙を読んで相手の用向きを知りますが、文字や紙は少しも損耗しておりません。
 このようにまごころさえあれば念ずる精霊に供養は届くのであります、と。

 父母祖先の霊に供養しても目に見えて即物的に反応が跳ね返ってくるわけではない。
 だから供養に無関心な人が多いのである。
 しかし、『地蔵菩薩本願経』に亡くなった人に供養すると、七分の一が念ずる精霊に届き、
「六分の功徳は生者自ら利せん。是を以っての故に未来現在の善男女等聞け、健やかなるとき自ら修せば分々に己に獲ん」
とある。

 雨露が自然に草木をうるおし育てるように無心に供養せば草木の成長と同じようにやがて大きな果報が与えられるのである。
 供養はしてあげるものではなく、させていただくものであり、その功徳ははかり知れない。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 11:52 | comments(0) | - |
第87話 人間万事塞翁が馬
 今年は午歳(※)、十二支でいえば第七位、月に配すると五月、時刻では正午、方位では真南、五行では火、動物では馬ということでこの配分のすがたをみると、元気いっぱいの様が連想される。
 今年は元気はつらつの年でありたいものです。

 さて、馬と人間のつきあいは長く、馬にまつわるいろんな話があるが、今回は「人間万事塞翁が馬」について述べよう。

 昔、中国の北方の塞に住む老人の馬がある日越境して胡の国に逃げてしまった。
 近所に人たちが見舞いにゆくと、老人は、

「そのうちいいことありますよ」

といって、少しも気にする様子がなかった。
 しばらくすると逃げた牡馬がすばらしい牝馬をともを伴って帰って来た。
 周囲の人々がお祝いの言葉を述べると、その老人は

「わるいことがなければいいが」

といって、浮かぬ顔をしている。

 両馬の間にりっぱな仔馬が生まれた。
老人の息子はそれを育てあげたが、ある日落馬して脚を折ってしまった。

近所の人が見舞うと老人は、

「そのうちいいことがあるさ」

といって笑っていた。

 時が経って、胡の国が攻めて来たので若者は戦争に駆り出され、十中八、九は戦死したが、脚を折ったため老人の息子は無事だった。

「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」

といわれるが、周囲の動きに一喜一憂することなく長い物差しで人生を達観したいものである。


※このお話は、平成2年に書かれたものです。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 11:51 | comments(0) | - |
第86話 相続や大難
 私どもの周囲には、才能のあるにまかせて、あれもやり、これもやりして生命力を分散し、結局は虻蜂とらずの一生を終わる人が少なくなりません。
 逆に、たとえ才能には恵まれていなくとも、自らの能力に応じた守備範囲を堅く守って、一つのことに精力を集中し、それを蓄積して大きく自己啓発の実を挙げている人も少なくありません。

 お釈迦さまの弟子に周梨槃特という人がおりました。
 この人は物忘れの名人で、聞いたことはすぐ忘れてしまうので、仲間の弟子たちはその愚かさをののしり、いつも軽蔑しておりました。
 そこで同じ仏弟子であった彼の兄は、

「お前のようなものには出家はつとまらないから」

といって彼を追い出してしまいました。
 兄に追い出されて街角で泣いている彼の姿を見つけたお釈迦さまは彼を連れて帰り、一本の箒を与え、

「心のチリを払わん」

という言葉を唱えながら掃除にはげむようにと諭されました。
こんな簡単な言葉さえ中々覚えられない周梨槃特ではありましたが、明けても暮れてもただそのひと言を繰り返して掃除にはげみました。
 その結果、周梨槃特の心境は大いに深まり、あざけり笑った人びとや、ののしった仲間達をはるかにしのいで、ついに羅漢様の悟りを開いたというのであります。

 禅に「相続や大難」という言葉があります。
 一つのことを相続し継続することは容易なことではありません。
 しかし、その容易でないことを持続、相続してこそ大きな成果をつかむことができるのであります。



※今回のお話は、第29話「相続也大難」のショートバージョンです。
 是非、ロングバージョンもご覧ください。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 11:49 | comments(0) | - |
第85話 水と氷の如くにて
 昆虫は卵から幼虫になり、幼虫が蛹になり、蛹が成虫になり、成虫が卵を生み、その卵が幼虫になるというふうに姿を全く変えております。
つまり完全変態しております。
だから蛹の一生を取り出してみると、幼虫から生まれ変わり、死んで成虫になるというように、その一生には生あり死ありですが、昆虫の生命そのものは不断に連続し存続しているのであります。

 私どもの命も、現象の上からすれば誕生から死亡まで精々七・八十年の命ですが、この世を仮りの世といいますように、この世の生命は宇宙の大生命の一つのあらわれ、循環の一コマに過ぎないのであります。
 ただ私どもには蛹の姿からその前の姿幼虫と、その後の姿成虫が全く変ったものであるように、自らの生命、死後の姿が想像されないだけのことであります。

 さて、この宇宙の大生命を仏といいますが、白隠禅師の「坐禅和讃」に

「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なり」

とあります。
 水と氷は同じく水素と酸素の化合物であります。
 しかし水は液体、氷は固体、0度以下の低温のままにしておくと、氷はいつまでも氷で水にはなりません。
同じように苦しみ悩みの多いこの人生も実は本来仏の御いのちなのですが、欲にこり固まっていたのでは、仏の御いのちをわがものとすることはできません。
 仏道修行に命の炎を燃やしてこそ、仏の御いのち、永遠の大生命がはあくされるのであります。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 17:04 | comments(0) | - |
第84話 一所懸命
 映画のフイルムには一コマ一コマそれぞれ少しづつ違った情景が写されております。
しかしそれを一秒間二十四コマのスピードでまわすと、それぞれ異なった情景が抜き差しならない一つのまとまった動きのように眼に映るのであります。

 時の流れもこれと同じように、決して一本調子で流れているものではなく、時々刻々変わっているのです。
私どもは便宜上、過去・現在・未来と分けておりますが、過去は過ぎ去ってすでになく、未来はまだ到達しておりません。
 あるものは現在の一瞬だけなのです。
この現在の一瞬が映画のフイルムの一コマ一コマのように生滅しながらつながっているのですが、私たちの眼にはゆるやかな変化としてしか映らないのです。

 人生はまことに無常迅速で、命は草葉に宿る露よりももろいのです。
 したがって人生をまともに見つめる人は、人生のはかなさ、たよりなさに苦しみ悩むことでありましょう。
 お釈迦様はじめ、高僧名僧がたが宗教を起こし、出家したのはみな無常観がもとであるといっても過言ではありません。

 私どもはもっともっと異迫感をもって、今日只今のもっとも確実な一瞬を充実すべきであります。

時はいま 処足もと そのことに打ち込む命 永遠の み命

 現在只今の一瞬に一所懸命に打ち込んでゆけば、それは永遠に尽きることのない仏の御いのちに通うものであります。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 17:03 | comments(0) | - |
第83話 施食の心
「盂蘭盆似而会施餓鬼」

などという言葉もあるように、お盆の月には、寺々で施食法要がよくおこなわれる。
 お盆は、父母祖先に対する孝順供養を教えるものであり、施食は無縁の精霊に供養する慈悲行の大事なことを教えるものである。

 古代インドでは祖先の霊は子孫が食べ物を供えてくれることを待ち望んでいると考えていた。
 この観念が仏教に取り入れられ飢えて食べ物を待っている死者の霊に食べ物を供養する施食がおこなわれてきた。

 ところで霊のことを中国語で鬼というので、飢えた霊が餓鬼と訳された。
鬼という字自体日本人にはいい感じを与えないが、餓鬼となるといかにも響きが悪い。
子供のことを餓鬼などというが、これはいくら食べても満足するところがないからであろう。
 だから貧欲でいつもイライラ、ガツガツしている人のことを「まるで餓鬼だ」などと、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の一つと見ている。
 そんなわけで施餓鬼というと、

「うちの先祖を餓鬼だというのか」

などと、抗議する人もある。
 そこで施食に改称されたわけだが、名称が変わっても、有縁無縁、三界の万霊に供養する法要の内容が変わったわけではない。

 すでに子孫が断えて供養してもらえない無縁の精霊はおびただしい数であろう。
 父母祖先に対すると共にそれらの精霊に供養することは人間として奥床しいことであり、この供養の心があってこそ慈悲行も充実してくる。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 17:01 | comments(0) | - |
第82話 牛蒡の頭
 禅寺の朝食はお粥に相場がきまってますが、時としてご飯になることがあります。
 ご飯には一汁一菜がつきます。
 或る朝のこと、その日はご飯でした。

 風外和尚は小僧の運んできたお膳につき、箸をとり、まずひと口味噌汁を吸い、
「うまいなァ、何汁かな」
と、箸で汁の具をさぐると、箸の先に何やら堅い物がふれました。
 つまみ上げてみると、なんとそれは蛇の頭でした。
 前の晩ザルに入れておいた野菜の中にはいり込んだ蛇を、暗がりの中で知らずに野菜と共に切って煮たのでありましょう。
 風外和尚は、
「典座和尚を呼んでこい」
と小僧に命じました。

 呼ばれた典座の奕堂和尚が方丈の間に入ると、
「これはなんじゃ」
と、風外和尚は箸でつまんだ物を前に突き出しました。
 奕堂は手のひらでそれを受けました。
蛇の頭である。
が、奕堂和尚は平然として、
「これは牛蒡の頭です」
というや否や、口の中に放り込み、かんで呑み下してしまいました。
「うむ、そうか」
とひとこと、風外和尚は奕堂和尚の見事な証拠隠滅ぶりを見て満足そうでした。

 この風外和尚は、江戸時代後期の人で、その学殖と禅定において稀にみる巨匠でしたが、さらに絵を描き、尺八をよくしたので、人呼んで「風流風外」「画聖風外」といいました。
また奕堂は曹洞宗大東山総持寺の独住第一世となられた人であります。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 17:01 | comments(0) | - |
第81話 ラクダの分配
 アラビアの昔話。

 年老いたアラブ人が死ぬ前、三人の息子を枕もとに呼び寄せ、
「わしが死んだらラクダをお前たちにやるが、長男は1/2、二男は1/3、末っ児は1/9だ」
といいました。
ところがラクダの数は十七頭だったので三人は分配について口論をはじめました。

 そこへ旅の老人がラクダに乗ってやってきました。
そして兄弟喧嘩の訳を聞いて、
「そうか、それじゃわしのラクダを差し上げましょう。これで分けられるだろう。」
と言いました。

 父の残したラクダに一頭加えると十八頭になりましたので、長男は九頭、二男は六頭、末っ児は二頭で遺言どおりの比率に分けられました。
 旅の老人は、
「これで仲よく分配できたわけだ。一頭余ったね。これはもともとわしのものだ。じゃ、さようなら」
と言って、ラクダに乗ってどこかへ立ち去ったということであります。

 十七頭を父の遺言どおりに分けようとすれば長男は1/2だからほんとうは8頭半、二男は1/3だから、5.7頭。末っ児は1/9なので、1.9頭ということになります。
 しかし、さいわいなことに旅の老人のおかげで、みな四捨五入の形で端数を繰上げた頭数のラクダを貰ったので三人とも満足しました。
 といって旅の老人のラクダにはなんら被害を与えなかったので、めでたし、めでたし、ということであります。

 割切れないものを割り切れるようにする知恵は、アラビアだけでなく、どこにも必要なことであります。
| houwa-sato | ちょっといい話 | 17:00 | comments(0) | - |
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